わくわくクルーズ・えんじょいクルーズ・クルーズ乗船記

クルーズに魅せられ、いつの日か世界一周クルーズに出かけます。それまでの記録を綴るクルーズ乗船記録ブログです。(2015年にっぽん丸乗船、2016年飛鳥乗船、2019年ぱしふぃっく びいなす乗船、2019年プリンセスダイヤモンド乗船)

【ぱしふぃっく びいなす 2019】語りべマスオの父島歴史ガイドツアー③[3日目-10]

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※ぱしふぃっく びいなす 2019クルーズ記は、2019年3月1日~3月6日の時のものです。

 【小笠原クルーズスケジュール】

1日目 3月1日21時       神戸港 中突堤 旅客ターミナル出港 

2日目 3月2日       終日航

3日目 3月3日8時30分 小笠原・父島入港 ⇐ 今ココです

4日目 3月4日         終日航海(硫黄島

5日目 3月5日         終日航

6日目 3月6日10時 神戸港 中突堤 旅客ターミナル入港

 

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語りべマスオの父島歴史ガイドツアー②[3日目-9]のつづきです。

 

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境浦海岸から扇浦海岸へ移動。ここも海がきれい。父島の海はどこも本当にきれいで一日じゅうボォーと眺めて居たいなぁ。

でも、私たちの目的は海ではありません。海岸とは反対側へ。

 

 

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小笠原諸島を発見したと伝えられる小笠原貞頼を祀った神社にやってきました。ここは他にもいろいろとありびっくり。

 

 

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神社の前に何やら現代的なものが。これは少し前に設置された海水淡水化装置です。

父島は水不足が続いていて、ダムの貯水率が2019年1月の時点で45%を切ったそうです。このままでは渇水してしまうということで、この装置を使い、海水を真水にします。

 

 

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オレンジ色のロープが見えますが、これを使い海水を海水淡水化装置に送ります。

ここに来るまで、父島の水不足のことはまったく知らず。歴史だけではなく、今の父島の現状を少しだけ見ることができました。

 

 

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鳥居をくぐり森?の中へ。森というほど森ではありませんが、もし私ひとりなら一瞬入りのをためらうかも。誰もいないし、この先どうなっているのかまったくわからないし。でも、全然安心ですよ。危なくありません。

 

 

 

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小笠原のバナナです。父島に上陸して4時間半の間に小笠原バナナに3回遭遇。縁がありますよね。でも、下のほうは枯れている。これも水不足の影響ですね。

 

 

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奥に入っていくとトーチカがありました。私、実際に見るのははじめてです。これを皮切りにこのあといろいろなところでトーチカを目にしました。父島要塞を改めて実感しました。地上戦はなかったものの、米軍からの空襲の激しさを想像するとこわいものがあります。

 

防空壕座礁した濱江丸(ひんこうまる)、そしてトーチカを見て、当時の様子を思い描き、恐ろしさ怖さをヒシヒシと感じる私。当時の人たちはこんな私よりももっとすごい体験をしているのに。

 

 

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小笠原神社

小笠原諸島を発見したと伝えられる小笠原民部少輔貞頼を祀った神社です。
文禄2年(1593年)、信州深志(松本)の城主であった小笠原長時のひ孫・小笠原貞頼が発見したと伝えられています。
小笠原長時は実在します。武田信玄家督を相続した同じ年に、小笠原長時家督を相続しています。その後いろいろとあり、上杉謙信を頼ったり、織田信長を頼ったり、最後は徳川家康に臣従。でもひ孫の貞頼のことはよくわかっていません。

 

 

 

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境内にある無人島発見之碑

ここからの景色もよかったです。父島はどこにいても最高の景色に出会えるのがいいですね。

 

 

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小笠原新治碑

幕府が小笠原開拓の趣旨を記載した碑です。文久元年(1862年)、咸臨丸で品川港から積み込まれこの地に建立されました。

 

 

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にほへ碑
この碑は、使い終えた筆を供養するための筆塚です。 江戸時代末期、短い間だったけど、教育がここで行われたことを今に伝える貴重な碑です。


文久2年(1862年)、幕府は八丈島から開拓農民30名を移民させました。そのうち8名はこどもで、幕府役人の原又吉は子どもたちに読み書き手習いを教えました。文久2年の冬に、使い終えた筆を供養するための筆塚として、この碑は建てられました。

ところが翌3年(1863年)、幕府は小笠原島開拓を中断し、役人や開拓農民も皆引き揚げることに。

明治になり、再び小笠原島の開拓が始まると、倒れていた「にほへ碑」を村民が建てなおしたという記録が残っています。

 

 

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小笠原開拓碑
明治に入り、政府は小笠原の本格的な開拓を始めました。その開拓に際し建立された石碑です。明治10年に東京で作成されました。撰文と篆額は大久保利通が担当しました。

 

明治10年といったら西南戦争の年です。そしてその翌年、大久保は暗殺されてしまうのですが・・・。大久保にとって明治10年は激動の年であり、そんな中作られた撰文は貴重なものですね。

 

もちろん小笠原の開拓史を知る上でこの石碑は小笠原新治碑は貴重な資料ですが。 

 

 

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扇浦海岸に戻ってきました。

これは小花作助之碑です。小花作助氏ってすごい人です。ここに来るまで名前すら知らず・・・。でも、この人がいなかったら今の小笠原はなかったでしょうね。最悪は他所の国のものになっていたかも。


文久2年(1862年)、幕府は八丈島から開拓農民30名を移民させました。と上記に書いていますが、その前年、幕臣小花作助氏は小笠原島開拓を命じられました。当時小笠原諸島はまだ日本領ではなく、住民が住んでいました。この小笠原に外国奉行だった水野忠徳と共に渡り調査を始めます。住民に対して日本領であることを宣言し、領有の基礎を築きました。そして、文久2年(1862年)に八丈島からの移民ともにここにとどまりましたが、翌年 生麦事件が起こり日英関係が悪化したことを受け、幕命により引き揚げることに。

引き揚げにより、当然ですが外国勢力はまた領有権を主張し始めてします。

明治になり小花作助氏は明治新政府に出仕。このままでは「小笠原が外国に奪われてしまう」という危機感を感じ、小笠原開拓をもう一度するように訴えますが政府は取り合ってくれませんでした。ですが粘り強く訴え、明治8年(1875年)小笠原に渡り再調査。明治9年(1876年)小笠原島出張所の初代所長を命ぜられ着任。そして、領有権を主張していた外国に日本領であることを通告。

 

 

扇浦は明治政府による開拓初期に、ここに役所が置かれました。ここに来ると歴史がいっぱい詰まっています。

 

 

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そして、長くなりましたが、扇浦といえば、ホテル ホライズン 小笠原です。これもマスオさんに教えてもらったのですが、なんとこちらのホテルに平成天皇美智子皇后がお泊まりになりました。

そして、パパブッシュ元アメリカ合衆国大統領もこちらに宿泊。

のちのアメリカ合衆国大統領となるジョージ・H・W・ブッシュは、昭和19年(1944年)9月2日 父島の日本軍施設を攻撃している最中に撃墜されましたが、アメリカ海軍潜水艦に救助され助かりました。
平成14年(2002年)ブッシュ元アメリカ合衆国大統領はかつて撃墜された折りに行方不明となった同僚の追悼と日米友好のために訪問。

小笠原村民だより
ここに詳しく載っています。



  

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つづく

語りべマスオの父島歴史ガイドツアー④[3日目-11]

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