【ぱしふぃっく びいなす 2019】硫黄島がみえる、摺鉢山が見える[4日目-3]
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※ぱしふぃっく びいなす 2019クルーズ記は、2019年3月1日~3月6日の時のものです。
【小笠原クルーズスケジュール】
2日目 3月2日 終日航海
3日目 3月3日8時30分 小笠原・父島入港
5日目 3月5日 終日航海
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硫黄島の前に朝食を済ませる[4日目-2]のつづきです。
2019年3月4日7時53分 硫黄島が見えてきました。上陸することはできませんが海の上から見ることはできます。太平洋戦争時、本土防衛の最前線となり、多くの尊い命が失われた場所です。
1543年、スペイン船が発見しました。そして次は1779年にイギリスの探検船に目撃され「サルファーアイランド」と命名されました。
日本が動き出すのは明治20年からです。この年 東京府知事らが硫黄列島を調査。2年後の明治22年、父島の住民たちが鮫漁と硫黄採取を目的として入植し、硫黄島の開拓が開始されました。明治24年、勅令により東京府小笠原島庁管下に編入され、北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と呼ばれる。
大正元年の人口は硫黄島が396名、北硫黄島が171名。この頃より移住者が増加。孤島ですが、島民の経済状態は悪くなかったようで、昭和18年の硫黄島の人口は1,018人でした。
昭和19年、戦争の激化により本土へ疎開が行われますが、その前に空襲で村落は壊滅。これでやっと疎開が実施されました。
昭和20年2月19日、アメリカ軍が上陸。国内で最初の陸上戦闘が行われました。翌3月に日本軍は玉砕しますが、その間多くの尊い命が失われました。
ぱしふぃっく びいなすと硫黄島。記念にパチリ。
この時はデッキのあちこちに人があふれていました。こんな機会、きっと最初で最後だからみんな見ますよね。
南海岸です。一番左端のポコっとしたのが摺鉢山です。標高169mの火山です。
船の進み具合で硫黄島の形が変わって見えます。少し前まで南から見ていた摺鉢山ですが、今は摺鉢山の横を通っているところです。
摺鉢山が中央に位置し、両手を広げているように見えます。
今度は摺鉢山が一番右側。ここは西海岸になります。
硫黄島は地熱が高く、島の至るところで噴気があります。船からもそれが確認できました。写真ではわかりにくいですが、中央から少し左のところにある白いのが噴気です。
島は噴出する火山性ガスで特有の臭いが立ち込めているそうですが、それは離れているからさすがにわかりませんでした。
今は穏やかに見える硫黄島ですが、ここで悲惨な戦争が起きたこと、ここで尊い命がたくさん奪られたことを胸に刻み、そして手を合わせて硫黄島をあとにしました。
つづく